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お金の雑学

淀屋常安〜没落した武士が世界一のお金持ちに〜『先人たちの底力 知恵泉』より

淀屋常安(よどやじょうあん)という人物をご存じですか?
戦国〜江戸時代初期にかけて活躍した大阪の商人で、豊臣秀吉や徳川家康に気に入られ、大商人にのし上がりました。
大阪を「天下の台所」と言わしめる存在にした立役者でもあり、「淀屋橋」にその名が残っています。
当時の彼の財力は桁外れで、西国の名だたる大名に貸した額は100兆円にものぼり、邸宅の広さは東京ドームのおよそ1.5倍の1万坪もあったといいます。

そんな常安の商売繁盛の極意がNHK『先人たちの底力 知恵泉』にて紹介されていましたので、まとめておきます。

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奇抜なアイディア

天正11年(1583)、大阪の街は建設ラッシュに沸いていました。豊臣秀吉が天下統一の拠点とする大坂城と、その城下町の建設に取り掛かったのです。
街には、一旗揚げようと全国から集まってきた材木商や土木業者があふれていて、その中の一人が淀屋常安でした。
常安は山城の国の武家の出でしたが、父が信長との闘いで討ち死にしたあと、思い切って材木商に転身。身を立てようと大阪にやってきたのだそうです。

文禄3年(1594)、商人として伸び悩んでいた常安にチャンスが訪れます。
伏見城建設工事のさなか、高さ7メートル、幅14メートルもの大きな岩が地中から発見され、工事が止まってしまったのです。秀吉から命じられた工事完了日まであと2日という状況で、役人たちは焦りました。

普通に考えれば、人海戦術でこの巨石を動かして取り除くしかありません。
それには1000人以上の人夫が必要で、人件費として500貫、今でいうと5億円もの大金をかけなければ無理だと考えられたので、多くの業者は入札に尻込みしました。
そんななか常安は「50貫」という破格の安さで入札。役人は半信半疑ながらも、常安に工事の許可を与えました。

工事当日。
常安はわずかの人数を連れて現場を訪れると巨石には目もくれず、地面に穴を掘りはじめました。そうして大きくあけた穴に、てこをつかって巨石を落としたのです。
発想の転換によってわずかの人数で巨石をまるごと埋めてしまい、問題を解決してしまったのです。

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度を越したサービス

無謀とも言える安値で難題を解決した常安は世の人々に強い印象を与えました。
秀吉にもその働きが評価され、当時氾濫の多かった淀川の堤防工事を任さられます。

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知恵泉より

図は陣頭指揮をとる常安を描いたもの。
2.4キロにわたる堤防を瞬く間に建設してしまったといいます。
こうして秀吉に気に入られた常安は、以後、自由に商売することを許可され、商人として大きな飛躍を遂げました。

時が過ぎて慶長19年(1614)、豊臣の世は終わろうとしていました。
徳川家康が、豊臣家を滅ぼすために上方に進軍してきたのです。

常安は、その時勢を読み間違えませんでした。
大阪に来た家康に対して、「大坂城攻めに用いる家康と秀忠の本陣を無料で造る」と申し出たのです。
タダならば、ということで、家康がその建築を常安に任せると……

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知恵泉より

急ごしらえにも関わらず、堅牢な大邸宅を造り上げました。
入母屋造の館に、切妻屋根の倉庫。それを高い塀で囲んで、防御も堅いものでした。

こうした“度を越した”サービスは、戦後も続きました。
城下にあふれた戦死者たちの遺体の回収・埋葬を無償で引き受けることを申し出たのだそうです。
これらの行いに対して家康は、戦場で回収した武具の販売権を常安に与えました。
その売却益は20万両(およそ2000億円)にもなり、同時に、天下人家康との太いパイプをつくることにも成功しました。

“度を越した”サービスが成功につながることについて、番組に出演していたジャパネットたかた前社長の高田明氏は、「金利・手数料を負担するサービスに年間50億円はかかっていた。」と明かした上で、「負担はたいへん重かったが、お客さんの利便性を考えた上で、それを経費として考えて行っていた。」と、ジャパネットたかたの成功のひとつには、まさしく“度を越した”サービスがあったことを指摘していました。

また、ノンフィクション作家の佐野眞一氏はある記事にて

ジャパネットたかたが成功した最大の要因は、ダイエーが経営破綻するのを見越したかのように、仕様書を読む必要のない大量消費社会が終わりを告げ、商品の使い方を誰に聞いていいかわからない少子高齢化社会に移行することを見越していたからだろう。

Infoseeknewsより

このように分析。
ジャパネットたかたの成功には、時勢を正しく読み、相手の目線に立った経営戦略があったという点でも、常安との共通点がありそうです。

得るよりも前に与える

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知恵泉より

慶長20年(1615)、いわゆる大坂夏の陣で豊臣家は滅亡。大坂の街も焼け野原になりました。
商人たちが自分の商売の立て直しに奔走する中、常安は家康に「自費で淀川の中州を埋め立てることを許可してほしい」と申し出ました。
この中州は葦ばかり生えていて誰も見向きもしない場所だったそうですが、常安には「この地を物流の拠点にすれば、大坂に活気を取り戻せるはず」という目論見がありました。
淀川は琵琶湖、京都から大坂を経て瀬戸内海までつながる大動脈です。その中州を拠点にすれば、物資の流通が格段に飛躍すると考えたのです。
常安は莫大な私財を投じて、東西3.5キロの巨大な造成地を完成させます。
これが現在の「中之島」です。

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ウィキペディアより

完成してみると、その利便性から各藩は争うように蔵屋敷を建て、出荷する米を一時保管するようになりました。
そして米の取引所が設置され、大量の米の売買を常安が差配しました。

やがて全国の米の半分が大坂に集まるようになり、戦災に荒れた大阪の地は「天下の台所」と呼ばれるまでに成長したのです。

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世界初の先物取引

米の取引が活発化するに連れて、米の価格の乱高下が問題になります。
稲作は天候に大きく左右されるため、豊作の年と凶作の年では米価が大きく変動します。この当時は米価が物価の基準でしたから、米価の大きな変動によって日用品の価格まで激変してしまい、庶民の生活は混乱を強いられました。

これを目の当たりにした常安は、幕府に米の「先物取引」を申し出ました。
収穫される前の米を、将来の出来不出来に関わらず価格を決めて買い取るものでした。

米の先物取引
取引は一年を三期に分け、約4ヶ月の期日を設けたもので、すべて差金決済する仕組みでした。
取り引きは百石を単位とし、その価格は1石当たりの銀表示で行い、現在同様に高くなると予想すれば買い、安くなると予想したら売って、買ったものは限月に当たる期日までに転売し、売ったものはその期日までに買い戻しして、その差額を現金で精算する差金決済取り引きでした。
証拠金と同じ仕組みの総代金の1%を「敷銀」として預けると言う方法だったため、レバレッジ効果も大きいことから現在同様に人気が高く、市場参加者はコメ商人はもとより大名・旗本・商家・豪農とさまざまでした。

最適化投資工房より

常安にとっては損することもある仕組みでしたが、この仕組みを始めたことで米価が大きく乱高下することはなくなり、結果、物価も庶民の生活も安定しました。
同時に、決まった額で買い取ってくれる常安のもとには今まで以上に米が集まるようになり、その手数料収入によって絶頂期には総資産が100兆円に達したとも言われているそうです。

中之島の開発も、先物取引も、元は「地域に貢献したい」という思いが出発点。
リスクを取って「得るよりも前にまず与える」という常安のスタンスが、結果的に大きなリターンを生むことになりました。

現在の世界一のお金持ちであるビル・ゲイツは「リスクを負わないのがリスク。」と語ったことがあります。
誰もイメージしていない新しい未来を発見してリスクを取る。
これも、成功者に共通する行動指針の一つなのかもしれません。

ちなみに常安の絶頂期の総資産である100兆円という額は、こちら(http://memorva.jp/ranking/world/wef_gcr_imf_gdp_2011.php)のサイトを参照するとオーストラリアのGDP(2011年)とほぼ同額になります。

また、海外のCelebrityNetWorthというサイトによれば、歴史上のお金持ちのうち、第一位はマンサムーサというマリの王様なんだそうです。

Mansa Musa I of Mali is the richest human being in history with a personal net worth of $400 billion!
CelebrityNetWorthより

彼の資産は4000億ドル。現代の世界一であるビルゲイツよりもかなりお金持ちなんですが、日本円にすれば40兆円~50兆円といったところ。そのことを考えると、常安の100兆円っていうのは真偽のほどが怪しいくらいに途方もない額といえます。

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淀屋のその後

こうして栄華を極めた淀屋でしたが、宝永2年(1705)、五代目の辰五郎のときに幕府から闕所(けっしょ)処分、すなわち「お取り潰し」を受けてしまいます。
番組では1年半に100億円を浪費するなど、商人の分を超えた贅沢な暮らしが問題になったためと紹介されていましたが、他にも大名に貸し付けていた膨大な借金を帳消しにするためといった見方もあるようです。

お取り潰しを察知していた淀屋の四代目は、番頭を務めていた牧田仁右衛門に娘を娶らせました。

牧田仁右衛門はお取り潰し後に鳥取県の倉吉に移り、再び大坂で店を持つことを夢見て、そこで稼業を引き継ぎました。当初は淀屋であることを隠して商売を続け、地道に商売を大きくしていったそうです。

お取り潰しから58年後の宝暦13年、牧田の4代目当主が屋号を「淀屋」に戻し、大坂で再興を果たしました。
当時の長者番付を見てみると、目立たないようにした工夫だったのか、番付は前頭の下の方(白く明るくなっている部分)にとどまっています。

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知恵泉より

「淀屋」はその後も八代目まで続きましたが、幕末に至って忽然と姿を消してしまいます。
幕府の闕所処分に恨みを持っていたために倒幕運動にお金を費やした、という説もありますが、番組に登場した東京大学史料編纂所の山本博文教授は

「幕末にある程度の規模の商人だと御用金などを徴発された。三井や鴻池などは新政府軍についてお金を出したのでその後政商として大きくなったが、中小のところはお金だけ取られてその後面倒を見てもらえなくなって消えていった。淀屋もそうして消えていった店の一つでは」

という見解を示していました。

まとめ

番組では「度を越したサービス」や「得るよりも前に与える」などのキーワードが紹介されていました。
それに加えて、時勢を正確に読んだことや、新しいアイディアを具現化していったことも、淀屋の商売繁盛につながっているといることがわかりました。
ゲスト出演していたジャパネットたかたの高田社長も同じようなことを実行して事業拡大に成功しています。いつの時代でも通用する、成功するための法則のようなものが存在するのかもしれませんね。

 

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