マッサンや社員に破格の給与を支給していた"大将"の太っ腹エピソード(実話)です。
舞台を北海道に移していよいよ佳境に入りつつあるマッサン。この後もすんなりとはいかないような雰囲気ですが、それでもニッカ創業者竹鶴政孝氏をモデルにしているわけですから、メイドインジャパンの本格ウイスキーが生み出されるさまをどのように描いているのか、期待を持って見ていきたいところです。
ところでマッサンは北海道に移る前、鴨居商店の大将のところで工場長として働いていました。鴨居商店のモデルは鳥井商店(現サントリー)、大将のモデルはサントリーを創った鳥井信治郎氏です。鳥井氏が周囲の人から『大将』と言われていたのでドラマでも堤真一は大将と呼ばれています。
物語の中では"大将"が金魚占いをしているシーンが幾度となく登場します。実は鳥井信治郎氏は信心深いことで有名で、自宅には仏壇はもちろん、比叡山の燈明、観音様の掛け軸、さらには岡山の最上稲荷の祭壇まで作り、毎日読経するのが日課だったそうです。ちなみに最上稲荷の参道にある巨大なお稲荷様の像はこの鳥井氏の寄贈によるもので、このほかにもあちこちの神社仏閣に鳥居やら像やらを寄進していたそうです。
前置きはこのくらいにして本題に入ります。
マッサンはドラマの中で、鴨居の大将から口説かれた際に先払いの給料として4000円を受け取っています。年収4000円。これは実話で、当時としては破格の給料だったようです。山口瞳著の『青雲の志について~鳥井信治郎伝』によると、
信治郎は、三井物産に頼んで、本場のイギリスからムーア博士を招く計画を立てていた。そのとき、イギリスでウイスキーづくりを勉強して帰ってきた青年技師がいることを教えられた。それが竹鶴正孝である。
まだ二十代であった竹鶴を年棒四千円でむかえいれた。
青雲の志について~鳥井信治郎伝(山口瞳著)より
ということでした。ちなみに、大正12年に山崎工場の事務(総務)係として入社した白江滋道(のちのサントリー常務)の給料は、
大正十二年に入社した白江滋道は、山崎工場勤務を命ぜられた。初任給四十円だった。翌年、十円あがって五十円になった。
青雲の志について~鳥井信治郎伝(山口瞳著)より
ということなので、マッサン(竹鶴氏)の年収は白江氏の年収である40円×12か月=480円の10倍近い金額だったわけです。
当時の生活水準についてまとめられている「月給百円」のサラリーマン―戦前日本の「平和」な生活 (講談社現代新書)という本にも、
~中略~
当時の月収の基準である百円は現在の五十万円に相当することになるが、総務省の2004年の勤労者家計調査では、一世帯あたりの平均月収は約53万円(平均世帯人員3.48人、世帯主の平均年齢46.4歳)だから、ほぼ符号する。
おおざっぱに言って、物価は2000倍上がったが、収入は5000倍上がっており、そのぶん日本人は豊かになったと考えればよいのではないか。
という記述があり、今の感覚で言えば年収2000万円前後とみればほぼ間違いないと思われます。
マッサン(竹鶴氏)は早い段階から給料には恵まれていたようです。スコットランドから帰ってきた摂津酒造(ドラマでは住吉酒造)時代の給料について、
私の帰国後の待遇は技師長で、月給は百五十円と決まった。
ウイスキーと私より
との記述があります。この時点で白江氏の3倍です。また、「ウイスキーとダンディズム 祖父・竹鶴政孝の美意識と暮らし方 」では、マッサンが余市で独立した後の年棒に関する記述があります。
雇われの身では限界がある。骨身にしみてそう思い知った祖父は、自身で会社を興した。昭和九年(一九三四年)七月二日に資本金十万円で設立した大日本果汁株式会社である。 出資者は、みずからのほか、大阪時代に知り合いになっていた共に事業家の加賀正太郎さんと芝川又四郎さん、そして留学時代にお世話になった柳沢保恵伯爵の四人である。四人の取締役体制で専務取締役の政孝の年俸は四千二百円であった。
ウイスキーとダンディズム 祖父・竹鶴政孝の美意識と暮らし方 (oneテーマ21)より
昭和になって貨幣価値も多少は変わっていたでしょうが、『昭和からのおくり物 昭和10年の出来事』というホームページによると、当時の巡査の初任給が47円、鉱山労働者の日給が1円75銭ということですから、やはりかなりの高給取りだったことは間違いありません。さらに、大正後期~昭和初期の頃の物価を調べてみると
借家の家賃・・・9円
日雇い労働日給・・・約2円
大卒初任給・・・50円
銀行員初任給・・・50円
公務員初任給・・・70円
国会議員報酬・・・3000円/年
帝国ホテルシングル一泊・・・8円
一般的な家庭の収入・・・28円/月
帝都モノガタリ大正の物価より
といった具合です。当時と今とでは需給バランスがいろいろと違ってますので単純に比較はできません。たとえば公務員の初任給が70円というのは当時の大卒の初任給や銀行員の初任給と比べると結構高めです。しかしそういう比較なんて意味がないくらい、鳥井氏がマッサン(竹鶴氏)に支払った年棒4000円というのは破格中の破格といえるでしょう。しかも年功序列の色合いが濃かったであろうことを考慮すると今の感覚では5000万円以上のインパクトがあったかもしれません。
この大将こと鳥井信治郎氏には他にも太っ腹なエピソードがあります。
昭和十二年、十三年に、次第に、サントリーは日本人の舌に浸透していった。
十四年、十五年には、売れて売れて困るという事態を招来する。原酒を寝かせなければウイスキーにならないのだから、売れ過ぎても困るのである。消費者にも問屋にも迷惑をかけることになる。とにかく、寿屋の社員には、年間のボーナスが四十カ月も五十カ月も支給された。一桁違っているのではないかということで、経理課へ戻しに行った男がいるくらいだった。
青雲の志について~鳥井信治郎伝(山口瞳著)より
文中にある寿屋というのは鳥井商店を母体として設立された会社で、今のサントリーの前身にあたります。当時、サントリーという名称は社名ではなくウイスキーに付けられた商品名・ブランド名でした。
それにしても、40か月とか50か月ものボーナスって想像できますか?月給20万円の人が1000万円近いボーナスをもらうような感じです。桁が違っていると考えるのが当然ともいえる額です。ゼロを一つ少なくしたって今のご時世の感覚では随分と恵まれた金額です。
更にいうと、昭和十五年というと鳥井信治郎氏の長男である吉太郎氏が若くして亡くなった年です。長男でありおそらく後継者と考えていた吉太郎氏が亡くなって悲しみの中にいながら、こんなボーナスを支給した鳥井信治郎氏ってやっぱりかなりの太っ腹だったに違いありません。