「早く料亭に行ってみたい」
「念願のBMWが買える」
「国会議員はグリーン車乗り放題」
「議員宿舎の3LDKが楽しみでしょうがない」
衆議院議員選挙で初当選した当初、数々の失言で物議をかもした杉村太蔵氏。
その後の国政選挙で落選したのち、現在ではバラエティ番組でタレント顔負けの活躍をしています。
国会議員だった当時から軽口をたたいてはヒンシュクを買っていましたが、最近では『薄口評論家』などと名乗って活躍の場を広げているようです。
こんな杉村氏、実は結構かしこい人なんだよという話です。
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本人は『バカでも資産1億円』なんて本を出して卑下してますが、じつは血筋からして普通の人とは違います。
ぼくの曾祖父は弁護士です。祖父は地元の長者番付に載るような歯科医、父も歯科医で2人の弟は大学の医学部、歯学部で医師、歯科医を目指していました。
父親が歯科医というだけならそんな大したことではないのかもしれません。なぜなら、歯科医院はコンビニよりも数が多いといわれているくらいですから。
しかし、
父親 ⇒ 歯科医
祖父 ⇒ 歯科医
弟 ⇒ 医学部、歯学部
曾祖父 ⇒ 弁護士
こうして並べてみると、やはり賢い血筋なんだなと思わずにはいられません。特に、彼の祖父や曾祖父の時代に歯科医になったり弁護士になったりするのは今以上にハードルが高かったはずです。
ちなみに、太蔵氏の曾祖父が現役時代であったろう明治~大正の時代は、弁護士になることは今ほど手間暇かかるものではなかったものの、当時の弁護士試験(今の司法試験)は大変な難関でした。
試験は大変な難関であり、1897年(明治30年)から1908年(明治41年)までの平均で、出願者749名に対し、合格者39名、合格率5.2%であった。
ウィキペディアより
また、祖父は歯科医を開業し、地元の長者番付に載るほどのお金持ちであり、それを継いだ父親の歯科医院の評判もよいようです。
とても親切で最後までていねいにして下さいました。
患者のことを考えた治療をしていただけました。研究熱心な先生です。
患者と真剣に向き合う姿勢が素晴らしいです。
本当におすすめの腕の良い歯医者さんです。優しくてご立派な先生です。
これからも死ぬまでお世話になります。
宜しくお願いします。デンターネット街の歯医者さんより
いろいろと書きましたが、要するに賢くなる下地はあったということです。
杉村太蔵のすごいところ~国体で優勝している
このように家系を見ると知識派の血筋を引いているのは間違いありません。しかし、太蔵氏は実は運動神経もよかったようで、高校時代にテニスのなみはや国体少年男子ダブルスで優勝しています。
松永一紀(札藻岩高)と三重・渡辺の息詰まるような一戦はタイブレークの8-7。松永の粘りに根負けしたのか、渡辺のショットはネットを越えなかった。
優勝だ。高々と両手を挙げる松永。緒方寿人監督もガッツポーズし、杉村太蔵(札藻岩高)が駆け寄る。チームメートらも次々にコートへ。北海道テニス界初の全国制覇に歓喜の輪ができた。
実力は相手が上。が、二人は臆(おく)せず立ち向かった。杉村は横井とのエース対決を8-1で制し、相手に重圧をかける。松永はタイブレークで0-4とリードされても「最後は気力勝負」とボールを追い続けた。「夢がかなった」と杉村。松永は「本当に苦しかった」と振り返った。コート横には「がんばれ!どさんこ」の垂れ幕。前夜、コーチらがホテルでもらったシーツで作った。「応援のおかげです」と二人。
札藻岩高を率いて二十三年目。雪国のハンディを乗り越えた緒方監督は「疲れた。祈るような気持ちだった」と声を詰まらせた。
1997.10.30 北海道新聞より
杉村太蔵選手(18)、松永一紀選手(17)=テニス
*国体少年で優勝
十月のなみはや国体秋季大会の少年男子で初優勝を飾った。テニスでの北海道の国体制覇は成年を含めて初めての快挙。選抜高校大会、全国高校総体を含めて道内勢の全国優勝も史上初だった。悲願達成の瞬間、緒方寿人監督(札藻岩高)とともにコートで喜びを爆発させた。
国体はシングルス2試合、ダブルス1試合で争う。準決勝で第1シードの東京に競り勝った勢いで、決勝では三重を2-0で下した。八月の全国高校総体の男子ダブルスでも、道内勢で初のベスト4入りを果たしており、雪国のハンディを乗り越え、北海道の実力を全国にとどろかせた。
気持ちを前面に押し出す杉村選手に対し、後輩の松永選手は闘志を内に秘めるタイプ。対照的な二人だが、コートでの息はぴったり。緒方監督は「これを自信に北海道、日本のテニス界を背負って立つ選手になってほしい」と期待する。
1997.11.20 北海道新聞より
杉村先生の息子さんは学生時代テニスで国体優勝した事もあって、地元の歯科界?では有名人です。
スポーツをやっている人ならわかると思いますが、国体は出るだけでもかなりすごいこと。実は太蔵氏の祖父がテニスクラブを経営するほどのテニス一家で、自前のテニスコートがあったとか。当然のように太蔵少年は子供のころからテニスを始め、小学生時代も中学時代も北海道大会で優勝するほどの腕前だったそうです。そもそもテニスコートを持ってる家庭ってまずありませんからこの点でもちょっと一般の家庭とは違います。
さらに先日はテレビの企画であの錦織圭とのハンディマッチで勝っています。相当の腕前です。
国体で優勝した太蔵氏はテニスの腕が買われて筑波大学体育専門学群にスポーツ推薦で入学します。しかし、高校時代までテニスに打ち込んでいた反動が出たのか、テニスへの情熱はあっけなく冷めてしまいます。
ゴールデンウイークの頃にはすでに幽霊部員状態でした。
テニスをやめた後は法律に目をつけ、弁護士目指して専門学校にも通ったそうですが、さすがにこれはハードルが高かったようで断念しています。でも彼のすごいところはもっと別のところにあります。
杉村太蔵のすごいところ~行動力がすごい
杉村太蔵氏の一番の能力はその行動力にあります。『バカでも資産1億円 「儲け」をつかむ技術』には、そのあたりの話がたくさん出てきます。
実家には法律関係の本がたくさんあり、両親は司法試験合格を目指すぼくを応援してくれました。すぐに渋谷にある司法試験対策で有名な予備校に入塾しました。3年間のカリキュラムで昼は大学、夜は塾というダブルスクールです。
塾の講師、引っ越し作業員、パチンコ店のホールスタッフ、居酒屋の店員……。国会議員になってニート・フリーター問題に取り組むうえで、これだけ多くのアルバイトを経験したことは本当に役立ちました。
キャバクラでは働きぶりが評価され、2、3か月で店の鍵を渡され、ホステスさんの出勤表を管理する副店長になりました。
東京へ戻ってからそのパーティーに行ってみると、当時の代表・鳩山由紀夫さんが出席していました。ぼくは人ごみをかきわけて鳩山さんのそばへ近づき、「政治に興味があります。秘書にしてください」とお願いしました。無謀な行動ですが、いちばん偉い人に直談判したほうが話が早いと思ったからです。そうしたら、なんとご自分の携帯電話の番号を教えてくださった!
派遣会社に登録後、いちばん最初に紹介されたのがこの清掃の仕事でした。断って別の仕事を待つこともできましたが、一も二もなく引き受けました。ほかの選択肢は考えもしませんでした。
雑用係から始まったぼくのキャリアは、少しずつ責任のある仕事を任されるようになり、1年後には「アナリストアシスタント」になっていました。
今でも携帯が鳴ると仕事中や打ち合わせ中でなければ、1コールか2コールで出ます。 知らない番号や非通知の着信であっても気にしません。どんな用件の電話かわかりませんが、すごく大切な仕事の電話かもしれないですし、その電話にすぐに出られないことでチャンスを逃すかもしれないからです
株式調査部の雑務を一切引き受ける「なんでも屋」でした。
担当者に「ちょっと待て~っ! あんたはぼくがどんな思いで働いているのか、わかっているのか!」と怒りをぶちまけました。担当者をはじめ、フロアにいるほかの多くの従業員は唖然としてぼくを見ていますが、構わず続けました。
まずは周囲のあらゆる人に「○○さんと一緒にお食事したことがありますか」と聞き回ります。ぼくの場合は、経理に行って過去の接待の伝票や領収証をチェックさせてもらっていました。そうすることで、相手の好む料理や店の雰囲気などを推測することができます。
買ってきて」と言われる前に、上司の仕事の状況を見計らいながら「コーヒー、買ってきましょうか」と尋ねるのです。たとえ断られても気にする必要はありません。気を利かせたその言葉は、上司に届いているものです。
「これは接待ではなくひとりで行ったのでは?」 そう見当をつけたぼくはその日の夜、六本木のそのキャバクラに行きました。あくまで普通の客を装い、1時間ほど飲んだところで、ついた女の子にさりげなく尋ねました。
説明会の内容をひと言も聞き漏らすまいとICレコーダーを3台購入しました。さらに、各業界の動向をまとめた業界本を買って必死に勉強しました。
外資系証券会社で働き始めてから1年が過ぎた頃、ぼくは「アナリストアシスタント」として、目をかけてくれたグレン・ウッドの期待以上の働きをするようになっていました。
一瞬、なんのことかよくわかりませんでした。でも、反射的に「5分で行きます!」と答えました。
「今すぐ自民党福岡県連に行ってくれ!」 福岡に? ぼくは戸惑いながらひとり羽田空港に向かいました。自腹で福岡行きの航空券を購入すると、福岡へ飛びました
ぼくは与謝野さんがやっているならと、一眼レフのカメラを買って写真を始め、囲碁や油絵を習いに教室に通ったことがあります。
決算発表会が終わると、彼女に「素晴らしい発表でしたね!」と声をかけてアピール。さらに、会社を出て地下鉄に乗る前に、名刺に書いてあった会社の番号に電話して「ありがとうございました!」と伝えました。そのあと、何度デートに誘ったかわかりません。でも、サラリーマン時代は一度もOKしてくれませんでした。
与謝野さんの期待に応えなければと、電話を切ってすぐ家内に「明日、日本に帰るぞ」と伝えました。親しくなったマイクやウィリアムズにも帰国すると告げると、その唐突さに驚かれました。しかし、「即行動」はぼくの生き方そのものです。翌日、家族で出国しました。
良いと思ったら即行動するのは誰にでもできそうで実はほとんどの人がやらないことです。そして真面目に前向きに取り組むから周りからも評価される。賢い血筋であることがどこまで今の杉村太蔵氏に良い影響を与えているかはわかりませんが、少なくとも、上記に挙げたような人並み以上の行動力が今のポジションに彼を押し上げていることは疑いようがないでしょう。
そして、そんな行動力がある彼だからこそ、株で儲けることができたといえます。
杉村太蔵が株で儲けることができたワケ
彼は著書の中で、資産一億円を築いたと明かしています。そして、株取引で得た利益は4000万円を超えるそうです。
証券マン時代に学んだ株式投資で、投資家としてこれまで4000万円を超える利益を上げることができました。2010年7月の参議院議員選挙落選から約4年で築いた資産は1億円を超えています。
テレビから受ける印象だけで判断すると単に運が良かったのだろうと思いがちですが、実際にはそうではありません。
彼は大学を中退して清掃員をしていた時に外資系証券会社(ドイツ証券)の役員から認められ、採用試験を経て証券会社の社員になっています。そもそも、こんなことは通常ではありえない話です。その後、自民党の公認候補になるわけですから、やはり常人にはない何かを持っていると考えるべきでしょう。
証券会社の社員だった時代に、彼は株式調査部というところで株式取引についてさまざまな情報に触れています。
ぼくが所属していた株式調査部はレーティングを変更、発表する部署です。
グレンは、ぼくを株式調査本部長のもとへ連れていきました。株式調査本部長は、のちにぼくのビジネスパートナーとなる佐藤文昭さんというかたでした。当時40代で、1999年にITバブル崩壊を予想し、2001~2006年まで日経金融新聞アナリストランキング「企業総合部門」で6年連続で1位を獲得。「世界一のアナリスト」といわれたかたです。ぼくにとっては雲の上の存在です。
証券会社ですから上場している企業名、証券コードをすべて暗記する必要がありましたが、それがまったく苦にならない。為替のルールを覚えるのも問題なしです。それどころか、ぼくは株価の動きを見ることがとても楽しく思えたのです。
アナリストの予想に反して株価が動いたときはいつも、その理由と株価の見通しなどをしっかり聞いて吸収していました。
ぼくが任された仕事の中で、膨大な作業となったのが、会社がカバーしているすべての株式の銘柄において、過去10年分のレーティング変更と目標株価の変更についての履歴を調べることでした。
上場企業の名前を暗記したり、値動きを予測するだけでなくその理由まで把握するような部署です。特にレーティング発表後は株価に影響を与えることがあるので、情報の管理も厳重にされていたとか。要するに、一般の人とは全く違う、異次元の情報の中で株式取引の基礎知識を吸収していったわけです。
そして、この時に蓄えた基礎知識のおかげで、選挙に落選して仕事がなかった時も、アベノミクスで日本の株価が上昇したときも、彼は上手に株で儲け続けることができたそうです。
バカとか薄口とかご本人は言っていますが、ホントのバカはそんなことはできません。国体で優勝したり清掃員⇒外資系証券会社⇒衆議院議員というあり得ない人生の階段を駆け上ったり。そして、そのバックボーンとして親兄弟が医者、弁護士だったりするわけです。やっぱりキャラとは違って賢い方なんだと思いませんか?
その辺のことが詳しく書かれています。特に彼の出世術は参考になります。